憲法演習(えとうゼミ)



カテゴリ:[ 子供/学校/教育 ]


22件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[22] 私見

投稿者: さとう 投稿日:2017年11月22日(水)02時16分36秒 97.EC0315.cyberhome.ne.jp  通報

本日の報告で加藤典洋氏の9条改正案が取り上げられたが、なんとなくモヤモヤしていたので少し考えてみたところ、モヤモヤの正体が判明したので一応報告したいと思う。

意見を求められた際、私は「国連は中立でないから」とか「国連を過大評価しすぎ」という反対の意見を述べたのだが、これでは反対の意見として不十分である気がしていた。なぜならば、そもそもこの改正案が自主独立とか国際協調に繋がるのかどうかということに疑問を感じていたからである。
端的に言えば「無責任」。この言葉こそがこの改正案を表す言葉として相応しいという結論に至った。何が無責任なのかと言えば、①「国民の生命に対する無責任」と②「平和に対する無責任」であると思う。

まず①についてだが、国連待機軍なるものを構成するのが日本国民であるということを、加藤氏はお忘れなのではないか。国連待機軍の交戦権を国連に託すということは、彼らの生死を左右するような決定を国連に丸投げし、紛れもない日本国民の生死についての責任を放棄しているに等しい。「集団的自衛権で地球の裏側まで行って戦争ができるようになる」という批判が安保法制の審議の際に為されたが、その際には、国会において審議がなされ、議決があり、内閣総理大臣が指揮官として責任を負うという責任の所在が明らかになっている。しかし、この国連待機軍なるものは責任の所在が分散されすぎているし、国連軍の出動となれば国際秩序の危機であるという大義のもとで大した議論もされないまま戦地に送り出される恐れがある。自主独立どころか、国民の生命の保護という国家の使命を放棄している、まさしく「無責任」である。

次に②についてであるが、加藤氏の改正案は、国連待機軍の創設によって国際平和にコミットしているように見える。しかしその実は前述のような彼らの生死に対する無責任である。国連に自国民を生贄として差し出し、彼らの生死に関する重大な決定の責任を国際社会の秩序維持という大義に埋没させ、責任逃れをしているに過ぎない。
ここに日本人の平和に対する認識の甘さがある。人類史上、手をこまねいていていて平和が訪れたことはこれまでなかった。たいていの場合は体制に対する血みどろの闘争があり、ようやく権利を獲得し、平和を享受することができるのである。だからこそ権利や平和を守るためにも体を張って血を流すことができるのである。
しかし日本の場合、戦前軍部による暴走により戦争に突入し、敗戦後はGHQによって起草された日本国憲法が施行され棚ぼた的に権利を獲得し、アメリカの世界戦略に組み込まれることで平和を享受した。ここには血みどろの闘争もドラマもない。ただなすがまま、なされるがままである。そもそも平和とは戦って勝ち取り守るものだという認識が足りないのである。ここに「無責任」の源泉がある。一部の人々(ここでいう国連待機軍)に負担を背負わせ、しかも彼らに対する責任すらも放棄するという狂気じみた発想が出来るのは、平和に対する「無責任」であるというほかない。本来、平和を享受するものは皆でそれを守る義務がある。フリーライドは許されるべきではないのである。平和的生存権などという主張をする者もいるが、平和ボケもいいところである。

余談ではあるが、国連中心主義を掲げ、交戦権を国連に託すということまでしておきながら、ちゃっかり国土防衛隊なる自前の軍隊を持つというのは一体どういうことなのか。結局腹の底では国連に対する不信を持っているという証拠ではないか。全くもって意味不明である。以上




[21] 11/7議題に関するメモ、私見

投稿者: おかだ 投稿日:2017年11月16日(木)03時19分8秒 p17031-ipngn10901marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp  通報

以前の山本さんの投稿へのレスポンスもかねて。
7日の内容、半ばうろ覚えのまま書き連ねてしまいましたので、訂正補足等あればご指摘下さい。


専業主婦、離婚後養育費貰えないケースあり
→【 男が働いた給料の半分を妻に渡すべき?】

★離婚の際は、専業主婦(主夫)の家事労働を考慮して財産分与がなされる。その際に寄与度に応じて、場合によっては資産の半分相当も配当することが可能。

★養育費問題は理論上男女逆転しても起こりうる問題
→女性問題として捉えるべきではないのでは?
(数はまだまだ少ないが今はもう専業主夫の存在も許容されつつある時代。)

★給料や分業、各夫婦で自由にルール設けるしかない。
?離婚しない夫婦もいる
?専業主婦でも家事をしない妻もいる
?逆に給料半分では済まない程働きすぎる妻もいる
?得意分野同士の分業で不満がない夫婦もいる
?夫より収入が多い妻もいる
挙げるとキリがないが家庭事情は様々。

★養育費問題は金貸して返ってこない他人同士の状況に類似(一般的な債務不履行の問題)
払わない者→強制執行
払えない者(結婚当時も分け合う資力があったか不明だが…)→が多く、救済すべき人が多いなら、行政が何らかの救済?手当てを考える余地あり?
↓↓↓
シングルマザー、シングルファーザーへの救済が行き届いていない問題を解決すればいいのでは?あるいは女性の(再)雇用の課題。ないし失業者全体に対する救済の課題。取り立ててジェンダー問題として考えるべき事案とは思えない。

★とはいえ勿論、「女だから」男に物申せない風潮が引き続いて現存し、その結果多くの夫婦において「女だから」損をしている人々が圧倒的に多いなら、その状況はジェンダー問題として受け止め、打破すべき。教育やメディアなどに大きな役割あり。


【 専業主婦は撤廃すべき? 】
専業主婦に憧れることは悪いこと?
関連して、女性が苗字を変えることに憧れる(抵抗がない)のは悪いこと?

★女性はどこまで''目を覚ます''べきなのか?
当の女性自身に自覚のないことまでも「差別」として認識しなければいけないのか?目覚めさせることと、価値観の押しつけとは時に紙一重…
いつの時代も価値観は多様でいい。

★1人の人間が大きな風潮に抗うことは難しい。専業主夫になること、夫が姓を変えること。かと言って風潮を完全否定した次にやってくるのは別の風潮で、「風潮」が消えることはない。
    良妻賢母万歳の風潮が去る
→専業主婦<キャリアウーマンの風潮が来る

★社会を良くしようと思うなら、大事なのは、選択肢を増やすこと。(例えば、選択的夫婦別姓、同性婚、専業主夫、など。)
★そして、あらゆるケースに理解を示すこと。多様性を許容できる人材を育てること。

★同時に、流行りを疑う姿勢の育成も重要。何を良しとするかは、時代や環境に左右されることが殆どで、自己決定権などと言っても、実際に我々が自己の価値観だけで決めていることなど1割にも満たないのかも。少しでも風潮に流されまいとして、1度疑ってみる力、は鍛えておくべき。(奴隷制が当たり前であった時代?地域に生まれても、それは違うだろうと気づける人でありたい。)
その意味で、専業主婦は女性蔑視なのかと疑うことはたしかに重要。疑った上でもなお当人が蔑まれていると感じないのならば実際に専業主婦になってもいい。そういう選択の積み重ねの結果に男女の数の差が現れても、それ自体に問題はないだろう、というのが、現時点での私の見解である。



[20] 本日思ったこと

投稿者: 山本 投稿日:2017年 7月18日(火)20時28分33秒 pw126233212253.20.panda-world.ne.jp  通報

山本です。お疲れ様でした。今日の感想シェアします。私はフェミニストなので、今日の議論はとても面白かったし、刺激になりました。

【今日思ったこと】
?私の名字
?名字変える男性
?結婚してる家族

? 私は自分の名字をキープします。名字、名前バラバラじゃなく私は山本朱音でしかないって思っているからです。私には結婚願望がないですが、その理由の1つはこの夫婦同姓です。私のために私の名字を名乗ってくれる人がいたとしても、モヤモヤ解決はしないと思います。それなら制度を使わなきゃいい。もっと出生率が下がっていけば、そろそろ国も深刻に感じるはず。笑 ただそういう選択を誰かが始めない限り日本はずーっとこのままです。

? 既婚男性が9割以上自分の名字を名乗り続けていることは、男性側の抵抗も強いと思います。もし男性が改称したら、「女性の家が強かったんだな」って聞かなくても想像する人が多いのでは?もし女性の家が強くなかった場合、男性って改称したら、例えば会社の上司になんて言われるんだろう?良いことは言われないじゃないかなぁと思います。
こう考えてみると、男社会がいかに画一的な結婚観を持っていると気付かされるし、異性愛者同士の結婚であっても多様性なんて存在しない。社会がこういう考え方をしている内は、同性婚なんてもってのほかです。

? 次に、私は日本社会では「結婚してて一人前」っていう風潮が強いと思っています。なぜなら「父と母と子供がいる家族」が社会における最小単位だから。(個人ではない)やっぱりそれが国にとって1番都合がいいんじゃないでしょうか。血の繋がった子供を産んでくれるし、分業してくれれば家族内のことは家族で解決してくれる。でもこれだと家族っていう単位だけが尊重されていって、結婚の恩恵を受けられない個人はもちろん、単位内の個人さえも軽視される気がします。制度だけを見ていると、家族だけが親密で重要なものと限定されている印象を受けるけど、あまりにも短絡的で、あまりにも社会の新しいニーズに応えられていない。

今日強く感じたことは、誰かが我慢すれば、全部がうまく回る社会は、もう要らないということ。ただその誰か自身が我慢していることを自覚していないのが日本の現状であり最大の課題かなと。長くなりましたが、今日思ったことです。

皆さま、よい休暇を。
ご意見・ご感想あれば是非ラインください。



[19] 今日の感想

投稿者: いしかわ 投稿日:2017年 6月27日(火)23時41分1秒 p96f60558.tokynt01.ap.so-net.ne.jp  通報

こんばんは。石川です。
今日の議論で思ったことをシェアします。

私が日本の教育で一番問題だと思うところは、主体性を育むことができないところです。文献にあったように、「なぜ?」と問うこと、自分の意思で何かを決めること、自分の考えを主張すること、そういう力がいまの教育で身につくと思えません。
なんで主体性が大切かというと、これからの社会を生きていくために絶対に必要な力だからです。高度成長期型の社会モデルはもう限界で、これからは、いい学校に行っていい会社(大企業)にいくことが絶対的な正解ではなくなると思うんです。自分の意思で物事を決めて、自分のその選択に責任をもつ、自立した個人であることを社会が求めるようになるのではないでしょうか。
高校までは決められたものを暗記して、言われたように勉強をしていればいい、それが正解だったのに、大学生になった瞬間に自分で全てを決めるという自由を手に入れる。その機会を生かすも殺すも自分次第なのに、受動的な人は、みんながやっていることをすれば正解だろうと思い、楽単をとってとりあえず単位をとってあとは遊ぶ、っていう日本の大学生のテンプレみたいな選択をするわけで。
とにかく勉強して入試を突破してきた人たちはすごいと思うし、そういう勉強をすべて否定するつもりはありません。主張するだけで中身のない話をする人より、おとなしいけど深く考えられる人の方が賢いとも思います。物事を自分の力で考える力がやっぱり一番大切で、知識量が多ければそりゃいいけど、ただ知識があっても使えないのではなんの意味もなくて。

主体性とか考える力とか、大学で身につければいいと言われるかもしれませんが実際そんなの無理だっていうのが現状です。大学はあくまでも学問の場であるのなら、生きていく最低限の力は高校までに着けさせないといけなくて、地域格差を生み出さないために画一的であることは必要だけど、一方的な教育手法ではなくてよりインタラクティブな授業であるべきだと思います。あと訳のわからない厳しい校則とか、本当に必要なのか疑問です。(私の高校はマナーを守ること、しか言われなかったので自分たちで良いこと悪いことを考えろっていうスタンスでした)

日本の先生は教え方が下手っていうのも深刻な問題ですね。どんなに優れたカリキュラムができたとしても、それを効果的に教えられる先生がいなければまったく意味がないなって思います。

長くなりました。以上です。



[18] Re: 議題

投稿者: おかだ 投稿日:2017年 6月15日(木)15時37分37秒 p17031-ipngn10901marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp  通報    編集済

【優生学と弱者(障がい者)】
この議題が私にとってどこかデジャヴで気になっていたのですが、その原因を思い出しました。「優劣はその時代その環境の価値観に過ぎない」旨のゼミ中の発言は、以前拝見したあるYahoo知恵袋から頂いた発想だったようです。少し話題になっていてご存知の方もいるかもしれませんが、ベストアンサーがとても分かりやすく面白いので共有致します。
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1463546664?ccode=ofv&pos=2

私は2016年7月に発生した相模原障がい者施設殺傷事件の関連でこの知恵袋を見つけたように記憶しています。同じくその関連で、障がいのある子を持つ親御さんの気持ちを紹介する記事も当時拝見したのでそちらも紹介します。もし自分に障がいのある子が生まれても穏やかに受け入れようと前向きにさせて頂ける文章でした。
http://grapee.jp/212153


【出生前診断の是非】
そんなわけで障がい者かどうかを判定する出生前診断を、私は受けないつもりです。ただそれは個人のレベルでの判断で、社会的に出生前診断を許容すべきかという問になると話はもっと難しい。時間、労力、経済面、精神面。育児する上で健常者の場合以上にあらゆる覚悟が必要になるのは確かでしょう。

しかしそれでも私は、システムとしてもないのが理想とあえて主張してみます。それは上述したことに加えて、今とこれからを必死で生きる障がい者の方々に失礼ではないかと思うからです。このシステムが出来たって障がい者はこの世から消えません。このシステムは、障がいを持って生まれること=「排除すべき可哀想な因子」と社会が公然と宣言することに等しい。(汚染物質や薬品など人為的なものが障がいの発生を助長することは無論忌まわしく避けるべきですが、その場合は障がいではなく原因が排除すべき因子なので話が別です。)

病気の早期発見とは少し訳が違います。病気は治療すべきものとして認識されていますが、障害は多く、それ自体が進行して命に関わるというものではありません。当事者にとっては障がいのある状態が「普通の状態」です。生涯向き合い続けて、どこかで受け入れて生きていくものです。(参考=http://ameblo.jp/yagi-katuji/entry-10369803719.html )※注
例えば「ブスの貧乳」として生きていくことは「美女の巨乳」として生きていくことよりも困難で、残念な思いをすることも多い。社会一般の価値観は知っていますし。しかしだからといって「ブスの貧乳」が排除すべき因子だと社会システム的に断言されてしまうことは、それを普通の状態として受け入れ何とか良さを見出しつつ生きている私どもとしては耐え難いことなわけです。
・・・障がい者の苦労が「ブスの貧乳」の比にならないことは推して知るべし、と怒られそうな例でしたね、失礼しました。ただ、一度「状態」に対する選好が始まれば、イケメンや美女を望むことと障がい者を忌むことの線引きはどんどん曖昧になってしまうかもしれません。

社会がすべきなのは彼らとその親御さんへのサポートを増やすことであって、楽だから因子を排除してしまえというのはいささか乱暴な社会システムです。そもそも健康に誕生したって、いつ障がいや重病を背負うことになるかなんて分からないのは皆同じ。つまり、生半可な気持ちで産み、育てられないのはどんな子どもでも同じです。健康に生まれてきてほしいと願うことは子のためですが、健康でないなら要りませんというのは子のためなのか、それとも自分が楽をしたいだけなのか。診断を受けて中絶を選択した場合、そう悩んで精神的なダメージを負う母親もいるでしょう。
今、奮闘の末に幸せを見出した障がい者の親御さん達の中で、事前の覚悟や対策が十分だった人はきっといないと思います。出生前診断で事前に判断が委ねられていたら出会わなかったはずの幸せな親子がどれ程いることか。

経済的な面等の問題から、出生前診断の選択肢を与えられたら診断を受けるという人は多いでしょうし、その人たちは何も悪くありません。その選択肢を用意してしまうことが社会としてよいことなのか、もう少し論じてから導入すべきであったように感じます。とはいえ一度導入してしまったものを廃止するのは難しいですから、今後現実的に出来ることは線引きが曖昧になって優生学至上主義の世の中になることを食い止めることですかね。

「晩婚化という異常事態に医療で修正をかけているだけ」という和栗さん(でしたっけ…?)の意見は一理あると思いました。生物学的に均衡を保つ必要があるなら、一定年齢を越えた場合だけ、希望者を対象に診断させるという手は妥協案としてあるかもしれません。まあただ、晩婚化も出生率低下も国家単位で見たらという話ですし人間という括りでみる生物学とは相容れないかもしれませんが、、。
(親御さんの覚悟のためという観点ならば、むしろ高齢だからこそリスクの自覚はもともと高いでしょうし、リスクの説明だけで足りると感じます。)

※注「現在はまだ稀なケースですが、先天異常を早期発見できることで、胎内での治療が可能なこともあ」るそうなので、これが稀でなくなるとすれば、治療行為の一種として、話は変わってきそうです。(引用=https://192abc.com/14498 )



[17] 議題

投稿者: おかだ 投稿日:2017年 6月15日(木)15時22分30秒 p17031-ipngn10901marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp  通報

6/13
ゼミ中に出た議題

【優生学と弱者(障がい者) 】

【出生前診断の是非】



[16] Re: 山本さん

投稿者: えとう 投稿日:2017年 6月 7日(水)17時07分33秒 yoshino.cc.sophia.ac.jp  通報

虐めの件、「可哀想と思っているけど何も動き出さないみんなが庇えば虐めっ子より大勢だし強いのに」、なぜ皆そうしないのかについては、ゲーム理論によって説明することが可能です。本当であれば皆が協力する方がベターな結果(i.e.誰も虐められない)を得られるにもかかわらず、非協力を選択するのは「囚人のジレンマ」に陥っているためです。これによると、虐めが発生したとき、傍観 or 注意の2つの選択肢がありますが、注意をすると今度は自分が虐めの標的になる可能性が高いため、傍観の方が合理的な選択肢となります。たしかに、皆が一斉に協力行動に移ることができれば最適な結果が実現されるのですが、それはゲーム理論による限り選択としては不合理です。虐めとゲーム理論の関係について興味のある方は、下記URLの文献をご参照ください。ゲーム理論一般について学びたい方は、『戦略的思考とは何か』が入門書としては最適です。

http://repository.seikei.ac.jp/dspace/bitstream/10928/364/3/rikougaku-50-1_1-7.pdf



[15] 今日の感想

投稿者: 山本朱音 投稿日:2017年 6月 6日(火)23時30分23秒 110-132-54-4.rev.home.ne.jp  通報

こんばんは。山本朱音です。今日はお疲れ様でした。
虐めの件の感想シェアします!

今日、虐められている人をみんな可哀想と思いつつ、庇うと、その庇った人が次の的になってしまうので不干渉とのお話ありました。でもそれって、可哀想と思っているけど何も動き出さないみんなが庇えば虐めっ子より大勢だし強いのにって思いません?!笑

日本の学校が全体主義というのなら、虐められている1人の人権よりも、その人を虐めることによって得られる何かの方に重きを置いているのだなと思います。全体主義っていうか不干渉個人主義?でも大いに干渉することもあるよなぁ。いい言葉が見つかりませんが、、、

何が言いたいかというと、虐めっ子も虐められる人もいるけど、日本の1番の問題は、そこに問題があるのに見て見ぬ振りをする人が多いっていうことなので深刻だと思います。

ではまた。



[14] Re: おかださん

投稿者: さとー 投稿日:2017年 6月 1日(木)23時04分3秒 KD182251241037.au-net.ne.jp  通報    編集済

>>>中立な国連軍のようなものによる集団安全保障制度を整えるのがゴール。

私もそう思います。集団的自衛権はアメリカとソ連という二極状態だからこそある程度抑制的に運用できていたと思います。ソ連無き今、アメリカが傍若無人に振る舞うのは必然なのかもしれません。

しかし、それを糾弾することは残念ながら難しいと考えます。善悪や理想だけで国家がその方針を決めることはあり得ません。アメリカという覇権国に対峙することは追従することよりも覚悟のいることです。
ドイツは毅然とした態度でアメリカに臨んでいることは講義でも触れられたことですが、ドイツは既にEUにおいて確立された地位を得ており、ソ連が崩壊し安全保障上の懸案はほぼ取り除かれています。日本は今まさに中国の海洋進出や北朝鮮問題の当事国であり、最前線であります。北朝鮮はともかくとして、中国に対しては日本単独で対抗することは不可能であり、日本の国益を守るためにはアメリカの力が必要不可欠です。この点、ドイツとは国を取り巻く状況が違います。

では、アメリカと中国の覇権争いに不干渉を貫くという選択肢はあるでしょうか。結論から言えば困難です。地理的な位置関係からして無関係を貫くことは大変な困難でありますし、様々な外圧を受けつつも中立を保つことは相当の覚悟が必要でしょう。そして、日本政府や国民にそのような気概があるとは思えません。

>>>アメリカが暴走した時に叩けるか
ソ連のような対抗馬がいるなら話は別ですが、現状では不可能です。

>>>侵略戦争が悪であることとの矛盾
善悪のみによって国策を決定することは考え辛いので、利益と損害を比較した上で合理的に戦争を決意する可能性は排除できません。悪いことをしてはいけないのは勿論ですが、だからと言って出来ないわけではないということです。

戦争が起これば人が死にます。死んだ人は戻って来ませんし、残された者の悲しみは消えません。これは世界が民主主義国だけになれば戦争は無くなるという洋学紳士の主張の源泉であります。民主主義国の為政者は皆支持率を気にします。兵士が一人死ねばその家族や友人、恋人等の支持を失いかねません。これ程のリスクを進んで犯す為政者は恐らくいないでしょう。だから民主主義国は合理的に戦争を避けるのです。

しかし、独裁者はそのようなことを気にすることはありません。何故ならば独裁者が独裁者である所以は、ある者の血筋であったりある党に所属していることが条件であって、国民の支持によるものではないからです。独裁者の関心は体制維持であり、そのために必要なのは民衆を押さえつけ、外敵から自分を守るための軍の支持です。しかしながら、軍人は功名を立てたがりますし、軍というのは戦うための道具ですので、強力な軍を持てば使ってみたくなるのが性というものです。そして損得勘定をして得をすると思えば動く、損をすると思えば更に力を蓄えてその時を待つ、そこに国民の命がどうなるという判断が介在することは無いというのが独裁国家の戦争観であると考えています。

日本が今対峙しているのは後者ですので、パワーバランスが崩れればあっという間にお陀仏です。ならばアメリカの犬になりアメリカの言いなりになって少しでもおこぼれを貰う方が賢い選択だと私は思います。現状アメリカに対峙出来る力を持った国はありませんので、アメリカにくっついていればそうそう手を出されることはありません。臥薪嘗胆、力を蓄え、将来のための選択肢を増やす努力をすべきであると考えています。



[13] Re: さとーさん

投稿者: おかだ 投稿日:2017年 6月 1日(木)15時13分32秒 p17031-ipngn10901marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp  通報    編集済

(実はもう佐藤さん本人にはLINEで伝えましたが反対意見をこんなに丁寧にきけることはかなり嬉しくて、有難いです。勉強になります。多少議論がバチバチはしても喧嘩ではないので皆様ご心配なさらず笑)

反対意見、とは言いましたが根本的な所では私と佐藤さんの意見には大きな相違がないかもしれません。恐らく佐藤さんが目指されているのは「本来的な意味での」集団的自衛権です。私もそれに真っ向から反対する訳ではありません。議題がタラレバだったせいでややこしくなりましたね、、すみません。

中立な国連軍のようなものを正しく迅速に機能させるなどして、「集団安全保障」制度を整える。これが長い目で見た時に人類が目指すべきゴールです。この理念は国連憲章1条に示されています。「集団的自衛権」も同じく国連憲章に定められたものですが(同51条)、集団安全保障とは本来矛盾する、妥協の概念であることを忘れてはいけません。
とはいえ、現実を見ると、侵略国のみを悪とみなし皆で制裁を科すという理想的な安全保障が機能するまでにはまだまだ時間がかかります。だから目的はそのままに、時差を埋めるものとして、個別的自衛権で足りないならば集団的自衛権も視野に入れるべきとは私も思うのです。

理想を言えば、一見他国に無関心にも見える日本のこれまでの姿勢を貫き、「実はこれが世界平和への近道なのではないか」と訴えて毅然としているのが1番カッコイイ。「集団安全保障」の実現の方にもっと力を入れれば他国に無関心とも思われにくくなるでしょう。
でも今の日本にその姿勢を貫く度胸がどうしてもないというならば、この理想は捨てて他国が求めるレベルまで国際協調を一層進めるしかないですし、その策のためには他国のためだけに日本人の血が流れることも免れません。こうした本来的な意味での集団的自衛権のためには、9条を変えるべき日が来るかもしれない、とも考えています。

しかし、です。
今回認めてしまったアメリカ主導の集団的自衛権は、上述したものとは違うと感じます。今の9条の範囲をこえていて憲法改正が必要だという形式上の問題はさておいても(立憲主義である以上さておいていいはずはないんですが)、内容的な問題も大きい。要件が曖昧で、アメリカが行くといったらアメリカについていく、政府が行きたくなったら行く、という内容に見えます。アメリカにノーと言える選択肢がある上での集団的''自衛''権とは思えない。これでは諸外国から『中立対等に』平和を望む国とは到底認識されません。日本が、アメリカを常に絶対の「正義」だと思考停止するなら潔いですが、それはそれで覚悟のいることです。アメリカが嫌いなわけではありません。(私はハンバーガーも映画も好きですから今後も友好的でいたい。)しかし、アメリカは派手に行動を起こす国です。アメリカの様々な「正義」を「悪」と捉える国が多くあります。そんな、国際的なテロの標的になることが目に見えているアメリカと運命をともにすることを自ら選んでおきながら、テロの恐怖を得体の知れないもののように煽っている今の日本はいかにも滑稽という印象です。覚悟が足りなかったのではないでしょうか。
自ら選んだ訳ではないというのなら、その本音を私達が忘れてはいけないだろうことは先述の通りです。

>>>自衛戦争と侵略戦争の線引きということでしょうか。

んー・・・「他衛」戦争と侵略戦争との線引き、という表現の方が分かりやすいかと思います。

>>>強い国がどんどん強くなれば後で自分達にも危険が及ぶかもしれないからここで叩いておこう。というのが集団的自衛権

むしろアメリカは強い国ですが、今の集団的自衛権の認め方で、アメリカが暴走した時に日本は叩けるのでしょうか。

>>>イラク戦争は侵略戦争

そうです。怖いのは佐藤さんが侵略戦争であるといったイラク戦争も、アメリカが正義の名のもとに主導した戦争であることです。アメリカの文書によって日本の関与が当時の政府の説明以上であったことも明らかになりました。集団的自衛権を認めていない当時ですら既に、加害者側と看做されてもおかしくない立ち位置に日本はいたのかもしれません。アメリカの犬のままに集団的自衛権を行使することは、それ以上です。日本が侵略側に回る可能性をおおいに孕んだ選択なのです。

>>>実際に主権の侵害があったか無かったかで区別するしかない

その通りだと思います。中立対等な機関・システムないし本来的な意味での集団的自衛権が構築されたあかつきには、この基準で判断されることが望ましいでしょう。ひとり時の政府のみにこの判断を任せる気にはなれません。

>>>お金の力はいざというときには何の意味もないことは、湾岸戦争の際に日本がどのような扱いを受けたかを見れば明らか

私も長い間そう思ってきましたが、その評価を下したのは実はアメリカであって現地新聞に日本への感謝がのらなかったのもその影響と最近知りました。私自身が歴史に明るい訳ではないので正しい情報でなかったらすみません。ただ、莫大な資金援助が何の意味もなかったかどうかは今1度冷静に考えてみてもよいかもしれません。(とはいえ、強国アメリカが「日本人も血を流せ」と要求していること自体は間違いないですね。)

>>>戦争は絶対的に悪であるか  私はそうは思いません。少なくとも自衛の為の戦争は正義です。侵略戦争は悪です。

そうですね。正義かどうかはともかくとして、正当防衛で違法性阻却ですから自衛は悪ではない。厳格な要件のもとでの個別的自衛権は認めるべきで、現行憲法もそれは認めていると思います。
しかし自衛を緩い要件で広く解釈し、それを好機に戦争し出すのは悪です。そして大抵の戦争はそうして起こってきました。「さあ侵略戦争をするぞ!」と本音を晒して戦争し出すバカはそうそういません。自国に危機が迫っている、とか、同盟国がやられている、とか、そういうのを大義名分にしてやるのが戦争です。その意味で、他衛まで含んでしまったら侵略戦争との線引きはいよいよ不可能だ、と言っています。
各々の同盟で正しい線引きなど出来ないから、極力中立的な機関を設けて判断を煽るしかないのです。その判断を待って初めて正真正銘の''自衛''たりうると考えます。少なくとも、今のままの曖昧な集団的自衛権を認めるなら近い将来日本が侵略戦争の加害者になるかもしれないという自覚は持っておくべきです。


>>>土地や資源、もしかすると世界の覇権を握ることが出来るかもしれない。失うものよりも得るものが大きければ戦争はメリットがあります。戦前の日本は見通しが甘かったとは言え、勝っていれば多くのものを手に入れていた筈

これは全て侵略戦争に勝利した場合のメリットですね。侵略戦争が悪だという主張との矛盾を感じます。私も日本がもし大国とタッグを組んで勝利すれば国としてのメリットはありうると考えます。(なんなら勝利どころか、戦後に生まれた私は日本が大敗によって図らずも得たある種のメリットを享受しているのかも、とさえよく考えます、考えると悲しいですが。)
ただ、それは承知の上で、そんな他人から奪うメリットを求めるだけの国になりたくはないという価値判断をしているだけです。敵味方問わず勝つまでに払った人命という犠牲は、勝利が国に齎すいかなるメリットをもってしても返ってくることはありません。傷ついた人の悲しみが忘れられることはあっても、その悲しみが癒えることはありません。そこまでして「強い」国にはなりたくない。豪傑君にならないことを選びたい。これはもう、好みです。


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