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お久しぶりです。

 投稿者:しゃけ  投稿日:2011年 7月13日(水)23時55分5秒
  大変ご無沙汰しております。いつ以来でしょうか(笑)
さて、私事ですが、私のサイトの訪問者がようやく
この度20万を越えました。そこで日頃相互リンクで
お世話になっている方々にお礼をと思い書き込みをさせて
いただきました。これからもどうぞ宜しくお願いします!

http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/

 

Re:笹谷城について諸々

 投稿者:さくら  投稿日:2010年 4月28日(水)18時27分12秒
  笹谷城主さま>

 レスが遅れるのは仕様ですのでご容赦を~(^-^;
 野球観戦したり仕事してたりでばたばたしておりました。

 東西80間南北75間…壮大なスケールですなぁ~。
 と言うかそれだけの規模(かもしれない)お城が、
 結構早い段階で痕跡も失われているってのもスゴイっすね(^-^;
 平地館の運命かもしれませんが。
 (福島城とか宇都宮城の規模でも現状は…ですからね)

 石積の痕跡見ーたーいーです!
 まあ折角ご案内頂いてもわたしに判るのか?!って感じですが(-_-;

さくらでした。
 

笹谷城について諸々3

 投稿者:笹谷城主メール  投稿日:2010年 4月23日(金)20時33分29秒
  このサイト様に触発されて、私も書籍、ウチの物置を捜索してみました。

昭和49年発行の書籍に「勘次郎館」に関する記述があったので紹介します。

ここより引用

勘次郎館
字原林にあり、勘次郎館(正しい文字は不明)といい、現在字上屋敷共同墓地のある西側一帯の高台のようになっているところにあります。

引用終わり

この文章では、笹谷城という名ではなく、住所も字道本林でもなく、、伝承のとおりです。
しかし、後続の文を読みますと、現在でいう「原林遺跡」をも含む広い範囲を指しているようです。

引用開始

林の中の雪室(雪を貯蔵したところ)の後も大正初期まで残っていました。

引用終わり

とあるのですが、昭和初期まで林が残っていたのは「原林遺跡」の場所でして、、はい。
堀の方は明治より段階的に埋め立てられまして、、大正期は既に開墾され畑地の形になっております。
戦中、昭和10年頃ほぼ平らな果樹園となり、戦後20年代に完全に姿を消しております。
止めの整地をしたのは、、私の親父様でした。

上記文章を読んだ感想といえば、、東西80間、南北75間の古城跡というのもあながち・・、です。
 

笹谷城について諸々2

 投稿者:笹谷城主メール  投稿日:2010年 4月20日(火)20時23分41秒
  「二郡村誌」を確認すると、「古跡」として、「古城跡」が記載されているようです。>伝聞
東西80間・南北75間で、壕や塁が認められるというような感じ。

↑でいうと笹谷城も原林遺跡も全部含めた壮大なものになったりして・・・。

堀、土塁のあった場所は阿部薩摩墓の西20mほど。
果樹園の中っす。
市道の南(道を挟んで↑の南)には石積みのスロープがありました。

実は内緒ですけどw
遺構のかすかな名残は現存しているのですよ。
石積みのほんのわずかな痕跡ですけどね。

私が説明しなければ、ただのイシコロですけどねー。
 

Re:URLとサイト名変更のお知らせ

 投稿者:さくら  投稿日:2010年 4月20日(火)14時17分49秒
  三宅播州さま>

 こちらこそ大変お世話になっております<(__)>
 「城郭ドットコム」での再スタート、誠におめでとうございます。
 弊サイトからの名称、リンク先変更も確かに承りました!が…、
 スミマセン、まだ環境が整っておりませんので、整い次第…(^-^;

 一体いつになったら整うものでしょうかね~(整える気があるんでしょうかね~)。

さくらでした。
 

笹谷城って…?

 投稿者:さくら  投稿日:2010年 4月20日(火)14時10分57秒
  笹谷城主さま

 レスが遅くなり申し訳ございません<(__)>

 頂いた情報、まほろん文化財DBを基に、
 笹谷城、勘次郎館の位置をアタマの中で整理してみよう!と思ったのですが…、

 笹谷城の登録場所が勘次郎館跡伝承地で勘次郎跡の所在地住所は存在しなくて、
 笹谷城主様のお宅はかつては笹谷城の近くで屋号は勘次郎で…(-_-)???

 一度お話しを伺いにお邪魔しないと判りそうにないですね(^-^;
 機会を作って是非ともご連絡させて頂きます<(__)>

さくらでした。
 

URLとサイト名変更のお知らせ

 投稿者:三宅播州  投稿日:2010年 4月18日(日)00時31分33秒
編集済
  いつもお世話になっています三宅播州です
この度、私が運営しているURLとサイト名を変更し再スタートいたしました
誠にお手数ではございますがURLとサイト名変更のリンクの設定をよろしくお願い致します
新 URL    http://www.joukaku.com/
新 サイト名  城郭ドットコム    (旧サイト名 城郭探訪紀)


今後ともよろしくお願い致します

http://www.joukaku.com/

 

笹谷城について諸々1

 投稿者:笹谷城主メール  投稿日:2010年 4月17日(土)09時40分13秒
  まほろんDBでは笹谷城の場所は「字道本林」となっております。
しかし、市の地図によります、かつて土塁、空堀、石積みが残されていた場所に限定して「字原林」地内にプロットされております。
私どもに伝えられている、、「勘次郎館跡」ですよ。

この堀、土塁は「堀を作った際の土石を利用して土塁を作る」もので、「大鳥城」に残る空堀&土塁や「あつかし山防塁」と共通した工法であったと、、これは私どもの伝聞ですけど。(発掘しなけりゃ証拠はでませんねー)
ですので、これが正しいのならば時代背景は「平安末期」ですかね??

ちなみに同じ「字原林地内」に平安末期の遺跡である「原林遺跡」も存在します。
こちらについては伝承されておりませんが、、開墾時になにか出土したのでしょうか??

また、平安末期の遺跡で「勘次郎」という人名が付けれた遺跡の多くは「荘園跡地」となるのが普通といわれておりますので、、このあたりで勘違いが発生したのかなーと思います。

当地は松川扇状地の中央部で、水の便は非常に悪い土地柄です。
用水の整備が完了する以前の農業は考えにくいのですよ。

当地の地形を見ながら、、当時の様子を夢想できればと思います。
 

Re:福島市笹谷城について

 投稿者:さくら  投稿日:2010年 4月16日(金)14時41分1秒
  笹谷城主さま>

 はじめまして!管理者のさくらと申します。

 貴重な情報有り難うございます~(^-^)
 まさかご城主様(?)御自らご連絡下さいますとは…畏れ多いことでございます。

 頂いた情報を読ませて頂きますと…全然情報が正しくないんですね。
 逆によくもまあここまで情報がバラバラになっちゃったモノだ、と思います。
 笹谷という地名が近世になってからつけられた地名(へぇ~)ということですし、
 そういったことから伝承などが誤って伝えられてしまったのでしょうかね?

 現在は遺構は失われてしまったとの事で残念ですが、
 折角のお申し出ですので、是非とも福島市訪問の際には連絡させて頂きたいと思います。
 その際は何卒ご教示の程宜しくお願い申し上げます<(__)>

さくらでした。
 

笹谷城について補足

 投稿者:笹谷城主メール  投稿日:2010年 4月15日(木)12時44分56秒
  えーと・・。

1、まほろんのデータベースにある記載。
2、市が有している公式の地図上での位置、名称。
3、現地での伝承。

の3点がそれぞれ全て異なるのですよ。
現地で実際の地形を眺めなければ、、説明は難しいです。

私の家は、終戦直後頃までは「笹谷城」とされている堀、土塁のすぐ脇にありました。
その頃までは遺構がまだ残っていたのですよ。

しかし、当時の我が家の屋号は「勘次郎」というのです。
つまり、、勘次郎館跡の近くに住んでいるから「勘次郎」なのですけど・・ね。

なんか、ほんとにめちゃくちゃっす。
ちなみに現在登録上「勘次郎館」とされているお宅の屋号は「上屋敷」さん。。
 

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