巽の間掲示板



カテゴリ:[ 趣味 ]


71件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[71] 元禄新刀、私も好きです

投稿者: 月本 投稿日:2017年 8月21日(月)22時45分14秒 pl664.ag5354.nttpc.ne.jp  通報   返信・引用

 雄山閣の『日本刀名鑑』(平成6年8月刊)の628Pをみると「山城住人二村左近藤原歳長」とか「山城守藤原歳長」という鍛冶が出ていますね。時代は寛文となっています。また貞享頃の鍛冶で右京進も「山城守藤原歳長」と切るようです。彼らは阿波を本国とし、歳信を二代目山城守歳長同人としています。時代は貞享となっています。
 ご覧になったのはこの系統でしょうか。歳長の系統は海部鍛冶に属し、長谷部国重末裔を自称し、堀川系統の鍛冶に学んだとそうですからよい刀を打っていたのでしょうね。
元禄というと二代目山城守歳長でしょうか。
 元禄新刀というと大阪新刀のイメージが強いですね。大阪新刀というと豪商が金に飽かせて打たせたというようなことをいう人がいますけれど、私は違うと思います。
理由は次の通りです。
1.大阪の豪商に武家に不快感を与えては損だからよい脇差を持つべきではないとい家訓があったと思う
2.町人は普通大刀をささないが、大阪新刀には大刀もたくさんある
3.四代将軍以降武断政治から文治政策に転じ、それが次第に形になってきたのが元禄時代である
 この中で私が最も重要と考えるのは3です。『葉隠』を見ると「中野家は樫の柄を握って
奉公云々」というような内容の文章があり、武断政治から文治政治の世の中に移ってゆく
ことに対する不満を持っていた武士たちも多くいたことが容易に想像できます。
 さて、大坂。商人の町というイメージがありますが、たとえば『武士の町 大坂「天下
の台所」の侍たち』(藪田 貫 中公新書)を読んでも簡単にイメージで商人の町であると
思い込むことの危うさに気が付きます。
 大坂は大坂場を擁し、幕府の西国にそなえた前線基地の町であり、また諸家の蔵屋敷が
立ち並び、全国の武士が集まる都市である点においては江戸と変わらないと思います。
 確かに豪商の中にも刀好きはいたでしょうけれどやはり大阪新刀の受容層は武士たちだ
ったと考えるのが自然ではないでしょうか。
 それに元禄新刀体配はどことなく末古刀を意識している気がするのですがいかがでしょ
うか。
 このように考えてくると、文治政治が浸透した江戸よりもむしろ大阪の方が戦国の気風
を残しており、また、江戸から離れていることで文治政治への転換への締め付けが江戸ほ
どは強くなかったのではないかと思います。
そして、こういった背景が大阪新刀を生んだのではないかと思うのです。
 『刀剣実用論』以来、華やかな出来の刀は折れやすいというイメージが広まり、大坂新
刀は実用刀ではないという意見もあります。
 仮にそうだとしても、貨幣経済が浸透し、幕府が上質な慶長小判を質の悪い元禄小判に
改鋳しなくてはならなくなったこの時代、刀注文できる武士というとある程度の上級武士
であったとおもいます。
 彼らの刀が「実戦的」である必要はありません。大坂城代が刀を抜くようなときは大坂
落城の時です。落城前に大坂城代が刀を抜き、折れるまで戦って死んだとあれば見事では
ないでしょうか。
 切れる・切れない、折れる・折れない。足軽いくさには大切なことでしょうけれど、上
級武士には上級武士のいくさがあり、足軽いくさとはまた別ではないでしょうか。

 それに元禄新刀のあの姿。金敷に何度も打ち付けるような試しで折れることはあっても
手にもっての切り合いでそうそう容易く折れるとは思えません。
私は大坂新刀、そして元禄新刀が好きです。




[70] Re: 御礼

投稿者: 美濃 投稿日:2017年 8月19日(土)08時08分25秒 sp49-98-159-139.msd.spmode.ne.jp  通報   返信・引用

池田鬼神丸国重の傑作をご覧になったとのこと。
良いですね。水田系は皆上手いです。多分かなりの数の刀が磨り上げて無銘の備前物として通しているのではないかと思います。
それ故に備中水田の在銘確実の物は少ないと言われています。
私はある所で、元禄年期の入った陸奥守歳長の脇差しを見ました。脇差しといっても長さは一尺九寸強あって、いわゆる小太刀の長さです。
出来は来国光にそっくりでおそらく写したのだと思います。
歳長という刀工は誰の系列かよく解りません。
それほど有名でもなく、私も昔、山城守の受領銘の歳長を見ましたが、特徴はあまり良く覚えていませんでした。
でも今回の作品は抜群です。明らかな注文品でしかも恐らく来国光の名品の現物を見ながら写したに違いありません。これ程の技術がある刀工とは正直知りませんでした。
無銘に改造したら来国光に持っていけそうです。
元禄年期というのも驚きです。この時代は刀工は不遇であまり評価も高くありませんが、このような作品を見ると実は非常にレベルが高かったのだと思います。余り作品が残っていないのも或いは不遇の時代故に写し物の注文が多く、それらは後世に「化けて」しまっているのかもしれません。
何はともあれ、本当に抜群の出来でした。



[69] 玄成様 やまうちごころ のこと

投稿者: 月本 投稿日:2017年 8月17日(木)12時42分11秒 pl22477.ag5354.nttpc.ne.jp  通報   返信・引用

玄成様

 どんなに優れたものの考え方であっても時代が経てば現実と合わなくなるものもあると思います。また、世の中がどんなに変わっても価値を失わないものもあると思います。
 『須知要枢』の中にある主従関係について述べた条など四民平等、民主主義の今となっては江戸時代のものの考え方や教育に関する資料としては役に立ちますが私たちの生活に直接役立つものではありません。
 一方今でも価値を失わない条もあると思います。武の条がそれです。例えば部隊を指揮する者ではなくても兵法を心得ていなくてはならないという部分。今でもビジネスの世界で自分より二つ上の立場で考えろ、というのがありますね。これに通じる部分だと思います。
 しかし、武の条で一番大切なところはそこではなくて、一番おわりの記述だと思います。武の条は武道だけではなく人の生活の中で行われることは全て教育であると締めくくられています。
 ここでいう教育とは知育・体育・徳育の三育のうちでも徳育の事を主に言っていると思います。そういえば大江先生・豊健先生の弟子であった宇野先生は山越先生に「箸の上げ下げと居合と何の関係があるのですか」とよく質問されたそうです。まさに『須知要枢』・武の条の世界ですね。
 宇野先生が大江先生に「何故山内様に剣道を教えて差し上げないのですけ」と質問したら「お殿様を竹の棒でシバくわけにはいかんきによ」と答えられたそうです。
 勿論容堂公直孫ということもあるのでしょうが、やはり豊健先生の中には『須知要枢』がしっかりと根を下ろしていたのかもしれません。豊房公以降の歴代藩主就任後のいわば「施政方針演説」とでも言うべきものの記録を読んでいますと一様に『須知要枢』を踏まえているようです。大江先生は豊健先生の立居振舞・言葉の端々などに『須知要枢』を感じ、かつての土佐のお殿様を感じていたのかもしれませんね。
 山内派の居合というと、技術としての居合であり、英信流の一派ということではないかな、と思います。
 それに対して「山内家」の居合といえばたとえ技術は山内派ではなくても、いえ、英信流でなくても、たとえば全剣連の制定居合や全居連の刀法を抜いても、心に「やまうちごころ」があればそれは山内家の居合といえるのではないでしょうか。

 昔ある山内派の大会の時、とある人を「山内派ではない」と言って排斥しようとしたことがあります。
確かに私のような下手くそが見ても「????」という居合でした。
 しかし山内様は「私はその人が『私は山内だ』というのならやはりその人は山内の流れだと思います」と言われたことを覚えています。
 排斥しようとした人、排斥されそうになった人、その人達がこの言葉の意味をどう受け取ったかは私には知る由もありません。
 ただ、山内様が伝えたかったことがちゃんと伝わっていればうれしいと思うばかりです。



[68] 御礼

投稿者: 月本 投稿日:2017年 8月17日(木)08時57分29秒 pl22477.ag5354.nttpc.ne.jp  通報   返信・引用

 美濃様、玄成様

 書き込みありがとうございます。

美濃様

 凍鶴会の報告にも書きましたが、青江の長刀直、池田鬼神丸国重、元興をお持ちくださった方がありました。勿論いずれも名刀ですが、私が特に感銘を受けたのは重国です。新刀というと慶長新刀と大坂新刀にはさまれて寛永新刀はあまり有名ではないかもしれませんが、寛永の頃の刀は姿がよく、私はよいなぁとおもっていました。
 しかし、実見した刀でこれほどの寛永新刀はみたことがなく、大変感銘を受けました。



[67] 凍鶴会報告

投稿者: 月本 投稿日:2017年 8月17日(木)08時50分11秒 pl22477.ag5354.nttpc.ne.jp  通報   返信・引用

 2017年8月12日土曜日、武徳殿で凍鶴会を開きました。

初めて来られた方もあり、また都合でお越しになれなくなった方もありますので会の起源と現在、そして12日の様子などを書かせていただきます。
凍鶴会は故瀬戸口君を偲ぶ会として13年間を限りに発足し、先年13年を過ぎましたので解散。しかしながら年に一度武徳殿でのお稽古を続けたいという声があり、趣旨は「自由なお稽古会」として凍鶴会の名称はそのままで継続しています。

 今年は8月5日に山内様が亡くなったので私としては山内様に書いていただいた

為天地立心 為生民立命 為去聖継絶学 為万世開太平

「天地のために心を立て、生民のために道を立て、去聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」

という軸を掛け、半日山内様を偲んでお稽古をする日にしたいと思い、まず山内様の奥様とご子息に手紙を差し上げました。
 また、当日は参加者にもお話させていただき、軸を掛けていることのお許しを願いました。すると皆様も追善として演武をしてくださりました。
これは今年だけのことであり、来年以降は致しません。

 自由練習では意外に観世流仕舞の稽古に人気が集まりましたので、来年は演武の礼、帯刀を事前に場外で済ませ、演武数を5本とすることで自由練習の時間を増やしたいと思います。
今年は14人の参加でしたが人数が増えた場合はまた考えます。

 さて、来年の仕舞のお稽古について、担当者は「熊野 ゆや」という入門編の仕舞を一曲舞えるようにしたいとのことです。
 参加希望の方は、お稽古着であれば問題ありませんが洋装であれば、ベルトのあるものがよろしいかとおもいます。舞台への出入りの時、扇を腰にさしますので。
 それから足袋があればお持ちになるとよろしいかと思います。新品より洗いざらしてすこし縮んだようなものの方がよいと思います。足袋は足にぴったりしたものがお稽古には良いので。
 それと扇ですが、観世流の舞扇となると高価なものですので、もし購入されるなら大学の能楽部で新入生が購入するものが良いと思います。そんなに高価なものではありません。
 ヤフオクなどで購入されるより当日武徳殿近くの観世会館の売店があいていればこちらが安心だし、便利だと思います。
 勿論お手元にあれば他の流儀のものでも構いませんし、扇子で代用してもよいとおもいます。

 当日武道のお稽古は居合がおおかったですが、体術のお稽古をされる方もあり、脇差のあつかいである「さしちがえ」のおけいこをされるかたもあり、皆様思い思いのお稽古でした。
 また、出産のため不参加となっていた方より赤ちゃんの写真がメールで届きましたので後席で皆様に見ていただきました。
その後拙宅に移り、山内様に書いていただいた鷹武会の看板二枚をつないだ二間の中ほどに置き床を置いて並べて置いたものに献杯をさせていただきました。

 また、拙宅では刀を見せてくださる方があり、3振りお持ちいただきました。中でも池田鬼神丸重国は大変な名刀でした。同作は初めて手に取って見ましたがこれほどの名刀かとびっくりしました。大変ありがたい機会でした。末筆ではございますがお持ちいただいた方に改めてお礼を申し上げ、この報告を終わりたいと思います。



[66] Re: ご縁の端につながる者として

投稿者: 玄成 投稿日:2017年 8月13日(日)23時58分29秒 softbank060134022183.bbtec.net  通報   返信・引用 > No.64[元記事へ]

山内様と月本様とのご縁のお話拝読しました。
葬儀のご様子などもご報告いただきありがとうございます。

月本様に「須知要樞」のお話をうかがい、「やまうちこころ」というお話もうかがいました。
私はそういった形で間接的にではありますが、ご縁を頂いたと考えています。
このご縁を活かせるような生き方をしたい、ただそう願うばかりです。

残された人間がその人の精神を引き継いで生きていく、それが最高の供養になると信じています。
山内様のご冥福をお祈り申し上げます。



[65] わずかながらでも土佐英信流を学ぶ者として

投稿者: 美濃 投稿日:2017年 8月13日(日)14時55分29秒 pb6aa2315.ehimnt01.ap.so-net.ne.jp  通報   返信・引用

山内様のご冥福をお祈りいたします。



[64] 山内様の葬儀に御花を供えていただいた大阪・兵庫のお稽古場の皆様、ご霊前をお預かりした皆様へ

投稿者: 月本 投稿日:2017年 8月10日(木)22時01分9秒 pl22477.ag5354.nttpc.ne.jp  通報   返信・引用

 最近、お稽古に来てくださるようになった方々には山内様とはどなたで、私とはどういう関係なのか良く分からないという方もあると思います。そこで、山内様と私の関係、そしてお稽古との関係を簡単に説明し、葬儀の様子をご報告いたします。

 山内様は山内容堂公曾孫で、山内豊健先生の長男です。私との関係はというと、三十年ほど前、居合の師である山越先生のご紹介でお会いしました。その後は時々「ちょっとついでに」などと言って京都に来られることがあり、書道をされていたので国立京都博物館や京都府総合資料館などに良くご一緒しました。また、その後はかなり飲みました。小柄な方ですが酒は私より強い方でした。十年程前ふとしたことから私も書道を教えていただくことになり、以来ずっと私の書の師です。
 皆様と関係あるところでいうと師より独立して居合の会を持つようにという指示があったとき、「鷹武会」とつけていただいた方です。最初は「君は父の名を使え、豊健会」と言ってくださったのですが、それはあまりに他の山内派の方に申し訳ないと申したところ豊健先生の号が「鷹堂 おうどう」なのでその鷹の字を取ってつけてくださったものです。ですから本当の読みは「おうむかい」もしくは「おうぶかい」。読みはどちらでも好きなほうをと言っていただきました。
 独立当時、師より社会的に認知された団体に入るように、と言う指示があったので居合術連盟に登録し、そのときも豊健先生の号からとったというのもどうかと思い読みは「たかたけかい」として届けました。
今はもう、居合術連盟所属ではありませんし、山内様ご存命のうちはともかく、この後は読みを正式に戻したいと思っています。何事も「濁る」というのはよくありませんから「おうむかい」が良いと思います。「鷹」は普通「よう」と読むことのほうが多いのですが、豊健先生の号は「おうどう」です。「よう」と読んでは容堂公と音が同じになってしまうから避けられたのでしょう。あるいは「おうどう」は「王道」に通じるということもあるかもしれません。山内様にお尋ねしたところ「そうかもしれないが、父から直接聞いた事はない、ただ容堂公が鷹匠町の生まれだから鷹の字を使ったのではないかな」とのことでした。
 尚、容堂公は藩主をだせる格の家である何家かの内、南邸家の出身なので他の山内家と混乱がないよう話の流れの中で私は曾孫の山内様を「南邸山内家」という言い方をすることがあります。
皆様にお話しする豊健先生に関することや山内家に関することなどの多くはこの山内様がお話してくださったことです。
 また、掛軸の他、お稽古に関して言えば会の看板、道場の看板、『須知要樞』の完全な写しも書いていただいています。ただし、オリジナルにはない文言を書き足してあります。
「月本の懇望によりこれを書いた」という意味の言葉で、武道の伝書などに良く見られる文言です。送り状には「嫌なら切り取っても良い」という趣旨が書いてありましたが、ありがたくそのまま頂いて表具してあります。ついでながら家の表札まで書いて頂きました。

さて、葬儀のこと。

 平成二十九年八月五日夜、山内様が亡くなったと奥様より電話が入りました。葬儀は神式、通夜祭は七日18時、葬儀は八日9時より、泊まるところは斎場内に部屋を用意してくださるとのこと。
七日、台風のために飛行機が欠航。列車を乗り継いで斎場に到着したのは夜10時過ぎでした。
後でうかがった話によりますと、私が通夜祭の後の食事会には間に合わないことを承知の上で奥様が私の席を用意して下さり、別途私が到着したときのために新しい料理を用意しておいて下さったそうです。そういえば出された日本酒も封を切っていないものばかり。ご配慮を頂いていたのですね。こんな大変なときであることを思うにつけ、本当にありがたいお心遣いをして頂きました。
到着後、奥様とご子息とあれこれお話しているうちに遅くなってしまい、これ以上は申し訳ないと思い部屋に引き取らせていただきました。
先に来ておられた土居様と相部屋にしていただいていたので、その後部屋で土居様と話していると奥様が「弔辞は月本さんに」、と言っておられたとか。
しかしながらその夜はそういうお話は奥様からもご子息からもなかったので、やはりもっとふさわしい方がされるのだろうと思っていました。
 そして翌朝奥様とご子息と土居様と四人で朝食をとり、そのあとの打ち合わせのとき、やはり私に「弔辞を」と言っていただきました。私としては「もっとふさわしい方があるのでは」と奥様に申し上げたのですが、私以外にはいないとのこと。このような場合、喪主の言葉に従わないほどの無礼はありませんので謹んでお受けし、弔辞を述べさせて頂きました。
 葬儀の後は霊柩・皆様と火葬場までご一緒し、私もお骨を拾わせていただきました。
その後斎場に戻り「帰家祭」という儀式に参列いたしました。神道ではなくなった方は家の守り神になられるそうです。してみると火葬場から神様として家にお帰りになったという儀式なのですね。
帰家祭が終わった後、奥様から手渡して頂いた手提げ袋の中に大きな角封筒が入っていました。あけてみると祭壇の前に喪主の奥様、施主のご子息、そして親戚の方々が並んで写された大きな写真を二つ折りのケースに収めたものでした。
本来、山内一族でも親戚でもない私が頂くべき品ではないかもしれませんが、奥様が手渡してくださったものですので、ありがたく形見として頂き、帰路につきました。



[63] 長刀直しにつきまして

投稿者: 月本 投稿日:2017年 7月 3日(月)22時32分22秒 pl22477.ag5354.nttpc.ne.jp  通報   返信・引用

 ある方より「何故昔は薙刀直しの刀が大切にされたのでしょうか」という質問メールをいただきました。
携帯で打って行くのは大変なのでここに書きます。幸若舞の『剣讃嘆』を読むと以下のようにあります。

時宗に参らす太刀の謂うれを、語て聞かせ申さん。昔、天竺よたう山に、れううんといふ滝あり。かの滝の双岸に、三尺の鉄の丸かせありて、日夜に人を悩ます。ある時、しやふりんといふもの、祈り出し、柄、身に八尺の長刀に打たてて持つたりしを、かううんといふ者、盗み出し、これを唐へ渡す。唐より日本に渡さるる。奈良の御門の御時「かかる名誉の長刀を、太刀にせむ」との宣旨にて、鍛冶の上手を召さるるに、奥の舞草と三条の小鍛冶と彼らは名誉の上手とて、この長刀を二つに分け、二人の鍛冶に預け給ふ

 やがて出来上がった太刀は舞草作が三尺、小鍛冶作が二尺七寸であったことから小鍛冶が鉄を盗んだとされ、投獄されてしまいます。すると二振りの太刀が自然とさやから抜けて切りあい、小鍛冶作が舞草作の先三寸を切って自分と同じ寸法にするという出来事が起こりました。

 この話は岩波の 新 日本古典大系の『舞の本』を見ながら書いていますので、本文はこちらでご確認ください。

 この話を読むと中世の人は立派な長刀を改造した太刀には不思議な霊力が宿ると考えていたようですね。
 槍の登場以降、長刀はその地位を取って代わられたかというとそうではなく、長刀も重要な武器として戦国時代にも使われています。
 その長刀をわざわざ刀に改造するのには散見する「槍の登場で長刀の需要がなくなったので」という説明は、私は納得していません。むしろ別の理由を考えるべきだと思います。
 槍が消耗品として使われ、所謂「名槍」が出現するのは戦国も終わりのころです。鎌倉末期~南北朝に登場したという槍ですが、結局ただの実用品・消耗品と考えられていた時間が長かったということではないでしょうか。
 それに対して『平家物語』の諸本の中では清盛が厳島明神から授かったのは「手鉾」とするものもあれば「小長刀」とするものもあります。つまり名槍が出現するずっと前から長刀は霊格の高い武器と考えられていたのでしょう。
 そうした立派な長刀を太刀・刀にすると強い霊力を持ったものになると考えられていたのでしょうね。
 刀の世界では「長刀直しに鈍刀なし」とも言うそうです。それは長刀なら何でもよいというわけではなく、やはり名作が改造されたからではないでしょうか。
 ちなみに長刀というと女性の武器、というイメージがあります。勿論そんなことはないのですが。ただ、天皇陛下が政務をとられるところへ渡られるとき、女官が御剣を持って従います。
 陛下の御剣というのは勿論ただの軍刀ではなく、霊器と考えるべきですから、そういう霊的な力をもったものについてはシャーマン性の高い女性が保持することがふさわしいという考えがあったのかもしれません。とすれば長刀も同様に考えられるのではないでしょうか。



[62] 短刀、「来」のようです

投稿者: 月本 投稿日:2017年 6月30日(金)10時57分24秒 pl22477.ag5354.nttpc.ne.jp  通報   返信・引用

 お稽古の皆様へ

 先般研師さんから「古い」といわれた短刀ですが、研ぎあげた結果、刃中の働き、地肌、地映りなどから「来でしょう」という連絡が研師さんからありました。
 もう一振りはこれからの研ぎですが地肌、映り、姿や中心などから「当麻でしょう」とのこと。二振りとも鎌倉時代のものということになりますね。まぁ、当麻の方はわかっていましたけれど。
 両方とも研ぎを終え、拵を直し、鑑定書を取ったら順次お稽古の時にお見せしたいと思います。
道楽ですねぇ。来月は吉道と金道の大小拵もできる予定ですのでたぶん、貯金残高は二十万円あるかないかになります。
 老後資金が溜まることはまずなさそうですが、仕方ありません。明日の命と引き換えに今日の命を生きているのですから。

 滅んでしまったジャワ原人や北京原人、ネアンデルタール人のような古生人類と私たちホモサピエンスの違いは想像力の有無だといわれています。我々の遺伝子のほとんどはホモサピエンスですが、わずかにネアンデルタール人のものも含まれており、両者に動物学的な違いはない。ではなぜ、ネアンデルタール人は滅び、ホモサピエンスの子孫は今に至っているかというとこの違いにより、例えば神や仏など実際には存在しないものを空想し、信じることができたから。それにより文化を作ることができたから。そしてまた「美しい」という概念を持てたから、と言われています。
 刀など人斬り包丁と言ってしまえばそれまでです。しかし、それはせいぜいネアンデルタール人の発想。われわれホモサピエンスはそこに「神」を感じ、「美しさ」を感じる。
大事なことだと思います。皆様に見ていただきたいのもそのためです。

 居合=不意に襲われたとき、とっさに刀を抜いて身を守る術、と説明する人もいます。まぁ、私はそれだけだとは思いませんが…。いずれにせよ、相手を倒して、いえ、殺して自分が生き残るための術であることには変わりないでしょう。
 では、何故、人を殺してでもあなたは生きなければならないのですか。そう聞かれたら答えられない人もいるかもしれませんし、答えられたとしても理由は様々だと思います。
 私の理由は「刀」です。刀を一振りでも多く、「美しく」保存し、今を生きる人に見ていただき、「美しい」と感じる心を自分の中に確認していただくため。そしてより長く伝えられる状態で保存し、次の時代に渡すため。そのために私は生きていますし、日本刀を腰に差しているとき、不意に誰かに日本刀で襲われたら刀を抜いて相手を倒して生き残ります。それもこれも、刀のためです。
 「老後資金」と称して刀に使うべきお金を惜しんでは私が生きている意味も、ましてや七十や八十まで食いつないで生きてゆく意味はないと思っています。
 実戦では。残念ながら私の居合ではM16やAK47を持った相手には勝てないと思います。9ミリ拳銃が相手でも無理です。まぁ、ですから、私の居合は現代の実戦の役には全く役に立ちません。
 でも、こんな役に立たない、時代遅れの居合でも「人を殺す」という前提で稽古することで、「では、何故私は人を殺してでも生きなくてはならないのか」ということを考える場にはなり得ると思います。
 「場を提供しているだけ」と、そういう意味では私の居合は技術や知識の部分以外、人に教えることはできません。人格形成の道の方はどなたかそれが教えられる偉い先生とか家元とかのところへ行ってもらうしかありません。
 私には自分の命の意味を自分で考えるための技術や知識しか提供できないのです。良い刀を見ていただくのもそのための一環です。そしてまた私の命の意味を自分自身に明らかにするための行為だとも言えます。

 刀を見てもらうなど、ただの骨董自慢と言ってしまえばそれまでですが、お付き合いいただければありがたいです。


レンタル掲示板
71件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。

お知らせ · よくある質問(FAQ) · お問合せ窓口 · teacup.レンタル掲示板

© GMO Media, Inc.